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「こうあるべき」だった頃
美容師になったばかりの頃なんて、ファッションも美容も、ほとんど何も分かっていなかった。 田舎から出てきて、センスの「せ」の字もない。 先輩や師匠を見ながら、 「これがおしゃれなんだろうな」 「これが格好いいんだろうな」 そんなふうに、見よう見まねで覚えていった。 働いていたのは、原宿や表参道。 そこにいる以上、 美容師はクリエイティブでなきゃいけない。 アーティストでなきゃいけない。 人と違うものを生み出さなきゃいけない。 いつの間にか、そんな「べき」がたくさん増えていた。 今思えば、ずいぶん肩肘を張っていたと思う。 周りからは、イノシシみたいだと言われていた。 壁があると分かっていても、とりあえず突っ込む。 前に進むことしか知らなかった。 それでも10年くらい続けて、30歳を過ぎた頃、代官山の店を任せてもらった。 任された以上、どうにかしたかった。 自分の中に「ここまで行けば一人前だ」と思っていた目標もあった。 必死にやった。 そして、その目標を達成した。 なのに、そのときに出てきたのは達成感だけじゃなかった。 「これを、ずっと続けるのか」 そんなことを思った。 ちょうど美容の世界も変わってきていた。 SNSやメディアに出て、注目されて、有名になる。 もちろん、それが悪いわけじゃない。 ただ、自分はそこにあまり興味を持てなかった。 職人みたいに美容師をやってきた自分にとって、 だんだん美容業界そのものが、つまらなく見えてきた。 あるとき、ふと思った。 なんで俺、こんなに無理して頑張ってるんだろう。
一度、違う道へ
美容師を辞めようと思った。 その頃、自分に何かプラスできるものはないかと、いろいろ探していた。 その中に鍼灸があった。 面白そうだと思った。 だから、鍼灸師になろうと決めた。 美容と鍼灸を組み合わせようとか、 二刀流になろうとか、 そんなことは考えていなかった。 むしろ、美容師は辞めるつもりだった。 師匠にも、 「美容師を辞めます。鍼灸師になります」 と伝えた。 すると、 「だったら、働きながら通えばいいんじゃない」 と言ってくれた。 そのための働き方まで作ってくれた。 だから結局、美容師を辞めずに鍼灸の学校へ通うことになった。 そこで、思ってもいなかったことが起きた。 美容と鍼灸は、全然違うものだと思っていたのに、 勉強すればするほど、似ているところが見えてきた。 髪には、髪の都合がある。 身体には、身体の都合がある。 本人が「こうしたい」と思っていても、 実際の髪や身体は、違うことを言っていることがある。 だから、話を聞く。 状態を見る。 自分の考えだけで決めない。 最初から答えを決めつけない。 その人と、その髪や身体と、自分。 その三つの間で、ちょうどいいところを探していく。 考えてみたら、 美容師としてやってきたことと、そんなに遠くなかった。 髪の声を聞く。 身体の声を聞く。 対象が変わっただけで、自分がやっていることは、意外と変わっていなかった。 そして不思議なことに、 あんなに嫌になっていた美容師が、 鍼灸を始めたことで、また面白くなった。
今の自分
若い頃は、自分の中から何かを生み出さなきゃいけないと思っていた。 それがクリエイティブだと思っていたし、 それができる人がアーティストなんだと思っていた。 でも、あれは結構しんどかった。 何もないところから絞り出して、 人と違うものを作ろうとする。 ずっとそれをやっているうちに、 そもそも、自分ってそういう人間なんだろうか。 と思うようになった。 たぶん、違う。 今は、自分はフィルターみたいなものでいいと思っている。 誰かの声を聞く。 今そこにあるものを見る。 いろいろなものを自分の中に入れて、 経験や知識を通して、返す。 ゼロから何かを作らなくてもいい。 今あるものを、少し豊かにして返せればいい。 アーティストというより、 デザイナーとか、パタンナーとか。 たぶん、そっちの方が自分には近い。 本当は、前に出ることもそんなに得意じゃない。 自分が目立つより、 裏に回って誰かを持ち上げる方が好きだ。 それでも今は、自分の名前で曲を作ったり、本を書いたりしている。 自分が一人立たなければ、周りを幸せにはできないと思うから。 自分に力がなければ、 助けたい人がいても、助けられない。 だからまず、自分に力をつける。 音楽も文章も、 たぶん、その途中にある。
まだ途中
昔は、前に進むことしか知らなかった。 壁があっても突っ込む。 それしかできなかった。 今は、少し違う。 下がることもできる。 横にも行ける。 回ることもできる。 場合によっては、飛んでもいい。 いろいろやって、 失敗して、 悩んで、 反対側にも振れて。 そうやっているうちに、 自分にとっての「ちょうどいい場所」が、少しずつ分かるようになってきたのかもしれない。 今は、美容師をやっている。 鍼灸師もやっている。 曲も作っている。 本も書いている。 これから先、また何か増えるかもしれないし、 逆に、やめるものがあるかもしれない。 それは、そのときになってみないと分からない。 昔は「こうあるべき」をたくさん持っていた。 今は、 何者か一つに決めなくてもいいと思っている。 まだ途中だから。